昭和48年05月11日 朝の御理解



 御神訓 一、「陰とひなたの心を持つなよ。」

 段々信心を解らせて貰うと、陰とひなたの心を持つと言う様な事は、愈々馬鹿らしゅうなります。勿体ない相すまない事になります。最近のように御神徳を受けると言う様な、御神徳を受けなければと言う、御徳神と言う様な事についての御理解を、日々頂いておりますけれども。神徳の世界に私共が憧れを持つと言う事が、金光様の御信心だと思うのですけれども。それこそ陰と言う事は人の見ない所、見えない所という所でしょう。むしろ見えない所を大事にさせて頂くような心掛けに、段々なっくるもんです。
 けれどもお互い、信心の過程には様々な所を通ります。私は今日御祈念中に、ある方が、その方は若い時にソプラノの稽古をした事があるそうです。その方が一杯機嫌でよくそういう歌を歌われる。そういう様子を頂くんですよ。いうならソプラノと言えば所謂甲高いというわけですかね、それを今日私は何とはなしに、浮わっ調子なと調子の高いいわゆる調子が高いと言う事は、非常にいい意味ですわね。良い意味ですけれども。調子が高いじゃなくて、何か浮わっ調子と言った様な感じで頂いたんです。
 だから私共の信心が真実地につくというか、もうそれこそ大地にしっかり根を生やしたような信心をそれの反対の事だと思うです。浮わっ調子というのは形に表れた所だけと言う様な感じでした。そして今日陰と日向の心を持つなよと言う事ですから、それと結びつけてですね、ひとつ浮わっ調子な信心ではなくて、私共がそれこそ大地に根を生やしたような、がっちりしっかりとした信心を頂いて行きたいと言う様に思いました。信心を幾つにも分けられると思うのですけれども、まぁいうならば人見せ信心。
 又は自分自身が助かる事の為の信心。それから神様が助かって下さる事の為の信心。最近は神様が私共の助かりをひとつ頂いてそして、一段と神様が助かって下さる程しの信心になろう。そこからが神徳の世界だと言う様なふうに頂いておりますですね。人見せ信心というのはまぁ是が一般です。大体はそれよりかもういっちょ先にあるんですよね。人見せと言う事じゃなくて只おかげを頂くから拝んでおるんだ参っておるんだ。
 只おかげを頂かねばならん時だけ、お参りをすると言った様な信心は、これは人見せ信心というわけでもない、そのまぁいっちょ前だと思うですね。人見せ信心というのは、人に見せたいと言った様な意味じゃなくて、私はここでは親先生の前だけでは、立派にすると言った様な信心を、今日は人見せ信心というふうに聞いて頂きたいと思う。おかげは受けるんです。親先生のいうならよく思う事がる。
 この人は本当私の前では、あれだけ行き届いた信心されとるとじゃけん、おかげ頂かんはずはないと思うけれど、家に帰ったら、それと反対の、信心生活をしておると言う様な事があります。ですから親先生の為に信心しとるのじゃない。そこも大変有難いですね。親先生が喜ぶ、又は親先生の前では、一角の立派な信者のように振舞う。それだけでも有難いです。けどもそれが大体多いようですね。皆さん本当にそれが多いんですよ実際。だから、私の前でのような信心しとりゃもっと本当にましなですね。
 自分自身の助かりもなからにゃいかんです。次には自分自身が助かると。夕べのお説教の中にも申しましたように、信心の味わいが解ってくる。おかげの味わいじゃないですよ。信心の味わいです。例えばそれは苦いものであろうが、甘いものであろうが、自分の嫌いなと思う食べ物なら食べ物でもです。それを本当に味合わせて頂いておると、むしろ自分の好きなものと思うておったものよりも、味が出てくるもんです。
 これはひとつ皆さんが、それを確信しておかねばならない事にですね、神様はね食べられないようなものは、絶対与えなさらんと言う事です。私共の前にですね頂けないというものは絶対ない。とかく信心は根を肥やせ。根を肥やせばひとりでに物が出来るようなものだという、そのひとりでに物が出来るようなおかげを頂くという事。これは自分自身が助かると言う事。自分一家が助かると言う事。
 それにはです只どんな事でも、がむしゃらに受けて受けて受け抜くと言う事だけではなくて、受けたものをですそれを味わうと言う所に、血になり肉になり、自分の心が肥えてくるのです。だからひとりでに物が出来るようになってくるんです。だから苦いものは嫌、臭いものは嫌と言わずにずにです、それを本気で味わうと言う事。例えは腹の立つような問題があってもです、もう本当にカッカッするごとあるけれども、いうならカッカッする心を、神様へ向けさせて貰うて。
 一心にお縋りし、御祈念させて貰い、日頃の御教えを頂かせて貰いよると、はぁほんなごて、こう言う事をされたり、言われてたりする筈だという、自分自身のね。佐田のお婆ちゃんじゃないけれども、昨日言われる様に本当に、私のような屑の子はありますまいという所が解って来る。だから味おうていくと言う事。ここになると信心も本当に素晴らしいですねある意味で。ひとりでに物が出来て来る様になるです。そういう信心が続けられていっておりますと。これは、うならば、自分の為の信心なんです。
 例えば石井喜代司さんの例をいつもとりますけれども。一切がそれこそ神様は恩も着せずに、黙っておかげを下さるとこう言う。そこに喜代司さんの助かりがあります。例えばそれは臭いものであろうが、苦いものであろうがです。それをこなしていっておる。いやむしろ、たまにはそういう事を喜んで受けておると言った様な所がある。いやぁ人が俺を、こんなに軽蔑しよる。
 これで自分が又おかげを受けるなと思うてですね。自分が馬鹿にされよると言う事が、腹のたつ所かそれによって、また自分が一段と心を肥やす材料にしておるのですから事実そうなんです。そういう所にそこに石井喜代司さんという人の助かりがありますように、私は自分が助かると言う事の為の信心をしておる人は、沢山はないです。してはおります。時々はしよる。けれどもそれに徹しておるという人は、本当にないですよ。
 少ないです。ですからそれは過程ですから、そんなら最近私が申しております、神様に喜んで頂くような信心。神様が助かって下さる程しの信心を御神徳を受けていく信心だと言っておるわけですね。ですからいうなら、今日は言葉は悪いですよね。そんならここにおる皆んな、大体人見せ信心という様な感じが致します。それは人見せち言うと、言葉が悪いですけれども、親先生の前では立派にやっておる 家では違う。
 教会では成程成程と、有難いと思うとるけれども、一歩外へ出ると違った心の状態のしておるというのを、今日は私は人見せ信心という風に言ったておるわけですから、まあほとんどそれが多いんじゃないかとこう思うです。ところが今度は自分自身が助かる、これは人見せじゃないですよ。今度は自分の為の信心という事になってくると、もう一切がね、粗末にしちゃ馬鹿らしゅうなってくる、自分の為ですから。
 これは苦いから、これは臭いからいからと、それはきついからと言った様な事を言わずに、それを味あうという信心。それを私は、自分自身が助かる信心だと思うです。だから、自分自身が助かる事の為の信心ですら、それになりきっておる人は、本当に少ないという事ですよ。段階を追うていく。ですからまず、自分自身が助からなければならない。それには、昨夜の御理解のように、一切の事柄の味わいというもの。それは色々ありますよ。不安な時にも、自分の助かってない信心を思わにゃいけません。
 腹が立つ時にも不安焦燥である時にも、イライラモヤモヤする時にもです。自分自身助かってない事を思わせて頂いて、これはもっともっと自分が助かる事の為に、自分の心の田地を肥やさなければいけないな、豊かにしなければいけないという事になってくるです。これは自分自身が助かる。しかも自分自身が助かる頃に、段々なって参りますとです、それこそ、ひとりでにものが出来るような、結構なおかげの世界に住む事が出来るです。これを自分自身の助かりの為の信心。
 まずはここが助からなければならない。そういう助かりをもってです、私共が神様に喜んで頂くような信心。ですから人見せ信心の時には、結局陰とひなたの信心だと、まず思わなきゃなりません。人見せ信心。いうならそういう時代がです、私はいうならば浮わっ調子な時です。本当に信心ちゃ有難い有難いち言うて、いわば実際嘘じゃないのです。お参りをしてくる、御理解を頂く確かに有難い。また自分の思うようなにおかげ頂いた時にはもう有難うして、本当にニコニコするなと言うても、しようごとある。
 自然に笑いがとまらんような感じになってくる。けれども自分のちょっと都合の悪い事やら、困って事やらになってくると、もう寂しい顔やら苦い顔やらをしておかなければならんというのですから。人見せ信心というのを、浮わっ調子の信心だと言う事になりはしませんでしょうか。私共はですね是は私を含めてですけれども、どうも浮わっ調子のような感じが致します。
 そこであぁこれは自分の信心が、浮わっ調子だと言う所から、自分自身が助からなければならないと言う所から、愈々自分自身が本気で自分自身が助かる事の為の信心になってまいりますとです。もうこれは陰の方を大事にしなけれは、自分は助からんと言う事になる。嫌な事柄でも嫌な問題でもです、それを味合わせて頂こうというのですから。そこに味わいがわかって来る様になるというならば、陰の方をむしろ大事にしなければおられない事になってくるのです。
 その辺からです私は本当の信心のいわば、信心の味わいというのは、おかげの味わいではなくて、いうならば苦労と思うておる、思うようにならないと思うておるその事の味わいを、私は信心の味わいがわかって行く人だと思うです。それはおかげを頂いて有難い。これもやっぱり味わいには間違いありませんけれども。それは牡丹餅の好きな人に、牡丹餅を与えたような味わいであり。酒好きな人に酒を与えたような味わいであってね。それを例えば嫌いなものでも。
 本当に味おうていくと、そこに好きなもの以上の味わいを感じさせて貰う。しかもそれが血に肉になるんだと思わせて貰うと、有難くなってくるという信心。それを私は陰もなからなければ、ひなたもないという程しの、信心になった時ちゃそういう時だとこう思うです。けれども楽しいんです、それこそひとりでにものが出来るような、おかげになってくるのですから。どうでもひとつただお願いしげに。
 ちょっとお参りをすると言う様な、いうならば、ほん御利益だけの事しか、考えないという信心から、いわゆる人見せ信心が出来てくるようになる。だから人見せ信心ちゃ悪い意味じゃないですよ。もう本当に親先生のいうならばです、機嫌をとるというかね、親先生の前で、ぴしゃりやるというかね、そしてそれは本当に実意丁寧をもって親先生の前で信心を、ぴしゃりやるという事もです。なるほどこういう有難い気持ちになれる。例えば、一時でも有難くなれれるという体験ですから、これも又有難いです。
 けれども、それだけにとどまっておってはならない。それではどうもです浮わっ調子の信心だというふうに、今日は聞いて頂いた。ですからそれこそ腹の底から、しっかり大地に根を下ろしたような、どっかりとどのような事があってもです。例えば昨日の朝の御理解のように、これ程信心するのに、どうしてこのような事が起こってくるであろうかと言う様な事ではなくてです。
 これはまぁだ私の信心が足りんのだと思うてという、一心の信心が出来るというのが、今日私は陰もなからなければひなたもないという信心からしか生まれてこないと思うです。だからそういう信心をです、身につけさせて頂くという事は、自分自身が真実助かると言う事なんです。ですからどうでも助かって貰わなければいけん。自分自身が助からなければいけん。人が腹を立てておる時に、人が情けながっておる時にです。情けないとか、腹が立つとかと言わんで済む信心。
 所が実際はあります。けれどもその情けないとか、腹の立つものをそのものを神様へ向けてです、じっと自分自身を見極めていき、日頃の教えを思わせて頂きよるとああほんなこと、本当に腹の立つ問題であるならば、人が私をこういうふうに軽く見るはずだと言った様なものに感じる訳です。そこから味わいが生まれてくる。だから人が馬鹿にでもするというと、喜代司さんじゃないけれどもね、それこそニコッと笑おうごとある。と言う様なですから、そこに自分自身の助かりがあるでしょうが。
 だから私はまず自分自身が助かる。なかなか御神徳を受ける信心、御神徳を受ける信心と、一足飛びには、いけないということ。そして人が助かる事の為の信心、この方は人が助かる事が出来さえすればと。教祖様がこれは丸そのまま、御神徳の世界に住んでおられるわけです。人が助かる事が出来さえすれば良いのである。それはどう言う事かというと、天地の親神様が助かって下さると言う事にも繋がる。
 難儀な氏子が助かると言う事が、天地の親神様の願いであり、又はそのような助かり、そういう働きをさせて頂く。いうならば神願成就、和賀心時代を創ると言った様な神様の願いに応えさせて貰うような信心。だからこれはね区切って申しましたけれども、私共の場合は、それが神徳を受ける世界に入っておっても、自分自身が助からねば、私が助からねばと言った様に、精進しなければならない所もありましょうね。
 迂闊にしておると、人見せ信心のような場合もありましょうね。けれどもこの三つの所がです、段々どこが濃くなってくるかと。陰と日向の心を持つなと。陰もなからなければ、日向もないという信心。所が私の信心は陰日向があると思うたら、陰と日向のない信心になって行かにゃいかん。そこから自分の助かりがある。それから今度は陰と日向、一様所ではない、むしろ陰の方へ力を入れさせて貰えれると言った様な信心は、愈々御神徳を受けてゆく信心。
 私共が自分の信心の調子というものを調べてみてです。もうそれこそ腹の底から、芯から所謂大地に根を下ろしたような、どっかりいうならば、どの様な事が起きてきてもです、信心させて貰う者は驚いてちゃならんと仰るが、驚かんですむ程しの信心。そういう信心は、私はむしろ陰を大事にすると言う様な生き方の信心からしか生まれてこないという風に思います。
 今日は陰と日向の心を持つなと言う事をです。大変いうならば格調の高い意味合いに於て聞いて頂いた。私共の殆どの信心が、まず人見せ信心だというくらいですから、非常に格調が高いと思うんです。ですから私共が人見せ信心から、ます自分自身が助かる信心に、そして神様が助かって下さる程しの信心へ進んでゆかなければならんと思うですね。
   どうぞ。